じゃがいもを掘る。ベランダからの風景と綿の植木鉢。

2022年06月28日

今年も6月28日がやって来た。

 母校が卒業生向けに隔月で発行している「早稲田学報」という情報冊子があるのですが、秋の10月号に「早稲田バカ(仮)」企画を予定しており、そのバカさ加減を紹介する寄稿を募集しています。周辺から、何人もが僕が寄稿するように勧めてくれます。

思い起こせば、高校2年生の頃から「早稲田」というものを意識していました。専業農家だった実家には「(わさだ)」と呼ばれる、早生(わせ)の稲を植えるのかな?という名前の付いた田んぼがあったのも縁かもしれません。WADAという名前もWASEDAと似ています。高校時代、NHKラジオで東京6大学野球中継をよく聴いていて、試合の7回に流れる校歌「都の西北」を覚え、2浪となりましたが、受けた学部はすべて受かり、入学式ではジーパン姿で一番前の真ん中に座って、校歌を歌いました。

大隈奨学金(返さなくていい奨学金)で1年時の授業料は免除となり、仕送りのお金の負担を減らすべく、かなりのアルバイト量で生活費や遊びのお金を捻出、在学中に手にした大学広報誌や学生新聞から革マルの自治会チラシなど、あらゆるものを捨てずに今でも残しています。
西早稲田2丁目に下宿して、時には下駄履きで歩いて大学に通っていましたが、カメラをよく持ち歩いていてキャンパスのあらゆるものを撮影していたのです。校舎、各学部の掲示板、自治会の立て看板、落書きなど、四季折々です。

大隈記念講堂と大隈侯の銅像はよく撮影しました。四季変わる木々の色付きを入れたり、雪が降れば、慌てて下宿を飛び出して、キャンパス近くの都営アパート屋上からキャンパスの雪景色を撮ったり。中でも、(これはもう時効として欲しいですが)仲間数人と1号館屋上に泊まり、大隈記念講堂の脇から登る朝陽を眺めたり、大隈庭園に泊まり込んで一晩中、大隈記念講堂の時計台を眺めたりしました。キャンパス周辺の高めのビルやマンションを見つけると、屋上から200ミリの望遠レンズで大隈記念講堂の写真を撮影したりもしました。

1983年3月の卒業から39年が経過し、早稲田キャンパスは校舎の高層化が進み、1号館や10号館、16号館以外は当時の面影は無くなり、大隈記念講堂でさえ、耐震化工事でタイルの張替えがあり、見た目は同じでも、ある意味別物のようです。
また、母校に錦を飾る?思いから、秋の稲門祭りで、総長室公認で趣味の風船パフォーマンスを2010年から6年連続やりました。
そんなこんなで、ここには書けないようなことも他にあるわけですが、知人連中からは、「早稲田バカ」として、寄稿を勧められ、寄稿しました。載ったら載ったで、問題にならなければいいのだけれど、編集部に任せます。


さて、6月28日と言えば、どうしても思い出してしまうことがあります。
中学2〜3年生の頃、交換日記をして付き合っていた福山さんのお誕生日です。彼女も元気にされているなら今日64歳となっているのかなと思い出してしまいます。すごく勉強の出来た彼女と、まあまあの僕は別の高校に行くことになってしまい、もし、同じ高校に進学していたら、その後、どうなっていたのかなと時々思うこともありました。ひとつ言えることは、失意の高校受験失敗がその後の僕の人生を大きく変えることになったことは、振り返るとわかります。早稲田に進学することなんてなかったはずです。
当時はそんなことはわからず、ただ失恋の痛みだけが残った訳です。その後、福山さんがいい人生を歩んでおられることを信じています。同窓会とかには一切出て来られない福山さんを最後に見かけたのは、1978年夏の勝央町の成人式。2浪の浪人生だった僕は話し掛ける勇気は無かったです。そのまま、時が止まって44年であります😙。


ところで、このところ、どうも体調がおかしい日がよくあります。先般、MRIやCTを受けた話を書きましたが、何だかだましだまし仮治療をしながら過ごしているというか、ある診断は受けましたが、原因がこれだというのがはっきりわからないというところもあります。来週はこのことで、ある治療をやる予定です。
昨日の朝、ウォーキングの途中で、熱中症かな?というか、急に何か変な感覚がぞぞぞ〜っと襲って来て、注意深く慌てて帰宅しました。その後、何となくずっとおかしく今朝のウオーキングも念のためお休みしました。
投稿の間隔が開いてしまうかもしれませんが、長い目で見てやってください。

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halc1073 at 08:59│Comments(0)

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じゃがいもを掘る。ベランダからの風景と綿の植木鉢。